石田あゆみさん死去 ― 2025年03月11日 17:10
「おでん酒屋おばこ」と「ブルーライト・ヨコハマ」
当地に来てよく飲みに行ったのは「おばこ」
当地に来てよく飲みに行ったのは「おばこ」
シロちゃん ― 2025年02月09日 17:45
高校の同窓会名簿から「シロちゃん」の死亡を知る。
阪神淡路大震災から30年 ― 2025年01月17日 08:50
あれから、もう30年になる。
出勤前のニュース、「地震があったらしい・・・・」位の感覚。
職場ではラジオがニュースを伝えていた、被害の大きさがどんどん大きくなっていくいく。
映像を視るのは帰宅後になる。
「被害にあった高速道路」が印象に残っている。
出勤前のニュース、「地震があったらしい・・・・」位の感覚。
職場ではラジオがニュースを伝えていた、被害の大きさがどんどん大きくなっていくいく。
映像を視るのは帰宅後になる。
「被害にあった高速道路」が印象に残っている。
昭和100年 ― 2025年01月01日 13:07
2025年は昭和100になる。
父親は明治、母親は大正の生まれ、
平成、令和と来たがこの時代で記憶にあるのは、平成23年3月11日の「東日本大震災」くらいか!
ようやく頭の整理が出来る。
2025年を昭和100年の基準値として
父親は明治、母親は大正の生まれ、
平成、令和と来たがこの時代で記憶にあるのは、平成23年3月11日の「東日本大震災」くらいか!
ようやく頭の整理が出来る。
2025年を昭和100年の基準値として
11月15日(めぐみさん) ― 2024年11月15日 16:15
北朝鮮に拉致された横田めぐみさん。
昭和57年11月15日である。
昭和57年11月15日である。
長兄死す ― 2024年11月03日 08:18
4人兄弟の長男、突然の死。
改めて、我が兄弟の生誕を確認する。
(1)長兄 昭和13年5月22日
(2)次男 昭和16年7月6日
(3)長女 昭和18年11月28日
(4)3男 昭和22年2月12日
(1)父 明治43年4月23日
(2)母 大正4年10月16日
〇兄の記憶
・戦後2拾数年か、父、兄と3人で東京に!
父の商売(薬店)の道具調達だったようだ。
・満員列車に窓から入った記憶
・上野駅の地下ホームでの浮浪児の記憶
・東京の電車の揺れで兄がモドシ田記憶。
・乗り合わせていた人が対応してくれたこと。
・中学校の体育の時間、走り幅跳びで意識を失ったこと。
・後年、ボートでの「キス釣り」に誘ったが、途中ボートの揺れに途中で中止になったこと。
・後年、家族で佐渡旅行を計画したが、やはり途中で中止されたこと。
・金沢大学薬学部卒である。
改めて、我が兄弟の生誕を確認する。
(1)長兄 昭和13年5月22日
(2)次男 昭和16年7月6日
(3)長女 昭和18年11月28日
(4)3男 昭和22年2月12日
(1)父 明治43年4月23日
(2)母 大正4年10月16日
〇兄の記憶
・戦後2拾数年か、父、兄と3人で東京に!
父の商売(薬店)の道具調達だったようだ。
・満員列車に窓から入った記憶
・上野駅の地下ホームでの浮浪児の記憶
・東京の電車の揺れで兄がモドシ田記憶。
・乗り合わせていた人が対応してくれたこと。
・中学校の体育の時間、走り幅跳びで意識を失ったこと。
・後年、ボートでの「キス釣り」に誘ったが、途中ボートの揺れに途中で中止になったこと。
・後年、家族で佐渡旅行を計画したが、やはり途中で中止されたこと。
・金沢大学薬学部卒である。
10月30日(結婚記念日) ― 2024年10月30日 14:26
昭和46年、29才。54年になる。
我が結婚生活を一言で表現するなら、「生きあたりばったり」
我が結婚生活を一言で表現するなら、「生きあたりばったり」
10月23日(義弟あっちゃん死亡) ― 2024年10月23日 16:01
ミスケの兄、あっちゃんの死亡した日。
義弟といっても、同い年。67才での死亡、もう12年になるのか。
締めて、469、060円也の簡易葬!!
(実支払い、359,060円)
2008年10月23日、午前1時30分頃である。IS病院からTELである。入院中のY・I氏が危篤との報である。午前2時25分、死亡が確認された。
ある事情から身内、親戚とは縁を切った人である。我々夫婦2人が後の処理をすることになった。兼ねてから自分自身の葬送は「簡単」にと考えていたが、実際実行出来るのかわからなかった。今回は、その実践となった。
密葬、家族葬まどの簡易葬が云われているが、今回の葬は「近親葬」と名付けた。本当に、身近にいた5名による葬である。
基本は
1.通夜、告別式はしない。
2.無宗教である(戒名は付けない)
3.火葬をもって終わりたい。
実際、こんな葬も出来るということで、今回の葬送をまとめておきたい。
なくなってから、35時間での葬送である。
●【10月23日】
02時25分 ・主治医とは、延命的な措置はしないということで確認。
2時25分死亡(Y・I氏の知人Kさんと我々夫婦の三人がみとる)
病院霊安室への安置が行われる。
この間、S葬儀社へ連絡をとる。(幸いこの葬儀社の互助会員であった。)
医師、看護士・・・焼香
03時35分 ・葬儀社到着、葬儀社へ搬送。
葬儀社5階の間に安置、5時30分一旦引揚げる。
09時30分 ・葬儀社と打合せ。
通夜、告別式は行なわないこと。戒名はつけない。無宗教で行ないたい。火葬をもって終わりたいという基本を了解してもらい、見積書ををもらう。
幸い、翌日(10月24日)AM11時に火葬の許可がでる。
18時30分 ・通夜を行なわないということだったが、我が夫婦二人で安置所に出向く。約1時間半、過ごす。
●【10月24日】
10時 ・納棺に合わせ、近親者5名参集。
11時 ・火葬
11時40分 ・火葬終了。
13時30分 ・葬祭場に戻る。自宅に簡単な祭壇を設け、お骨を飾る。
これで葬関係は総て終了する。
病院からの通報を受けてから、35時間で葬送という行為は終了した。勿論、この後細々としたことは残ったが、葬というものが、こういう形で出来るということが判ったのである。
義弟といっても、同い年。67才での死亡、もう12年になるのか。
締めて、469、060円也の簡易葬!!
(実支払い、359,060円)
2008年10月23日、午前1時30分頃である。IS病院からTELである。入院中のY・I氏が危篤との報である。午前2時25分、死亡が確認された。
ある事情から身内、親戚とは縁を切った人である。我々夫婦2人が後の処理をすることになった。兼ねてから自分自身の葬送は「簡単」にと考えていたが、実際実行出来るのかわからなかった。今回は、その実践となった。
密葬、家族葬まどの簡易葬が云われているが、今回の葬は「近親葬」と名付けた。本当に、身近にいた5名による葬である。
基本は
1.通夜、告別式はしない。
2.無宗教である(戒名は付けない)
3.火葬をもって終わりたい。
実際、こんな葬も出来るということで、今回の葬送をまとめておきたい。
なくなってから、35時間での葬送である。
●【10月23日】
02時25分 ・主治医とは、延命的な措置はしないということで確認。
2時25分死亡(Y・I氏の知人Kさんと我々夫婦の三人がみとる)
病院霊安室への安置が行われる。
この間、S葬儀社へ連絡をとる。(幸いこの葬儀社の互助会員であった。)
医師、看護士・・・焼香
03時35分 ・葬儀社到着、葬儀社へ搬送。
葬儀社5階の間に安置、5時30分一旦引揚げる。
09時30分 ・葬儀社と打合せ。
通夜、告別式は行なわないこと。戒名はつけない。無宗教で行ないたい。火葬をもって終わりたいという基本を了解してもらい、見積書ををもらう。
幸い、翌日(10月24日)AM11時に火葬の許可がでる。
18時30分 ・通夜を行なわないということだったが、我が夫婦二人で安置所に出向く。約1時間半、過ごす。
●【10月24日】
10時 ・納棺に合わせ、近親者5名参集。
11時 ・火葬
11時40分 ・火葬終了。
13時30分 ・葬祭場に戻る。自宅に簡単な祭壇を設け、お骨を飾る。
これで葬関係は総て終了する。
病院からの通報を受けてから、35時間で葬送という行為は終了した。勿論、この後細々としたことは残ったが、葬というものが、こういう形で出来るということが判ったのである。
10月10日(1964)(東京オリンピック) ― 2024年10月10日 15:42
昭和39年10月10日(1964年)、東京オリンピック開催の日。80数年前のこと、新潟の大学を卒業、この地に。
まだ「研修生)という立場。
確か10月10日は祝日だったのではないか。
まだ「研修生)という立場。
確か10月10日は祝日だったのではないか。
8月15日(79年目の終戦記念日) ― 2024年08月15日 17:18
終戦から79年、戦前生まれの最後の世代になる。
追悼式出席世代も戦後生まれが47%。
田中角栄元総理の言葉が現実味を帯びてきた。
「「戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなあ」
追悼式出席世代も戦後生まれが47%。
田中角栄元総理の言葉が現実味を帯びてきた。
「「戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなあ」